昭和44年3月15日 夜の御理解 (末永信太郎) №44-041
御理解六十八節の中に、有り難そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ、神に嘘を言うも同然じゃというところがありますね。有り難そうにお参りもする、心経やお祓いをあげると言うても、真がなければ、神に嘘を言うも同然じゃと仰る。ここんところを、私は御神前であの、信心頂いておる者が信心を頂かんということは、宝の持ち腐れだ、と。ね。
信心を頂いておる者が信心の道を踏まないならば、それは、宝の持ち腐れだと頂きました。別にまあ、それはどういうような意味だろうかと思って、あの、御理解ここで頂きましたら、只今のところをですね、例えば、いかに拝んでおっても、ね、お参りしておっても、どんなに有り難そうにしておっても、拝んでおっても、それは神に嘘を言うも同然だと、こう言うのですから、これじゃやっぱりおかげにならんはずですね。ね。私どもが本当にあの、信心という宝を頂いておるのですから、その信心を日常生活の中に頂き貫かせてもらう、信心の道を歩かせてもらう。
そうして拝んで、初めて神様にその真が通じる、それが本当だ。いかに拝んでも、生活そのものが信心でない道を歩きよってから、いかに拝んだって、それは神様に嘘を言うも同然じゃということになるのです。神に嘘を言うも同然というような信心をしておる者が、どのくらい多いか分かりません。これでは、いざという時に役に立ちません。どうでも、一つ、信心の道を教えてもらうんですから、それを使わなければ、それを行じなければ、宝の持ち腐れ。ね。
それでなくて、信心の道を外れて、いかに拝んでおっても、参っておっても、それは神様に嘘を言うも同然じゃということになるんです。どうぞ、神様に嘘を言うような信心じゃ駄目ですね。どうぞ。